有沒有懂日文的朋友可以幫忙翻譯一下,我只知道這篇是1945年灣生返回日本的新聞記錄,想說也屬於台灣歷史的一部分,所以就轉載跟大家分享!
引揚船32隻の画像
↑復員兵を迎える看板 舞鶴は、戦後の復員や引き揚げに重要な役割を果たした港で、「岸壁の母」という歌でも有名である。この看板は、舞鶴市の平にある引揚施設に掲げられたものである。(昭和24年7月 舞鶴 ダン撮影)(2)
『敗戦国ニッポンの記録(米国国立公文書館所蔵写真集)』は、
8日25日、昭和天皇は海外で武装解除した 日本陸海軍の将兵に対して諭した。 「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所 なり」この勅諭にもとづいて、満州・朝鮮に約100万人、中国に約110万人、南方諸地域に約160万人の合計約370万人もの陸海軍将兵は、粛々と日本 国土に還ってきた。これを「復員」といった。
さらに、中国や満州その他の外地には多くの居留民がいた。その数約300万人。これら多数の老若男女が、「引き揚げ」の名のもとに、まったく保護なしに母国へ帰ってきた。
国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。とくに幼い引揚者の疲れ切った姿には、戦争の残酷さ、残忍さというものを強く突きつけられ、出迎えた人々の涙を誘ったという。
「国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。」と書いている。民間引揚者に対 する国家の保護はなかった。それらの官吏は一番最初に逃げて帰国してしまっていたからである。国家の原発事故後の対応などを見てみればおおよその想像はで きる、グルでダメである。
舞鶴ほどに有名な引揚港はない、昭和25年以降は引揚港はただ舞鶴しかなかった。全国知らぬ者はなかろう。知らぬ者も多くなった、というか最近では知らぬ 者の方が多いかも、忘れさせたい者も多いし、何とか美化したい、何とか外国に罪をかぶせ、自分は不問にしたいとするものもまた多いのである、しかししかと みなが史実を知らねばならないものなのである。
舞鶴市民と舞鶴引揚記念館は全国民と全世界の平和を愛する人々に対して大変な重責を負っていることになる。二度と繰り返すことなきよう、マインド・コント ロールされたままでなく、これら国家の恥ずべき事実を展示しなければならない。しっかりと向き合えるだけの才幹があるだろうか。これはなかなか自称平和主 義者でも難しい。
名誉にもわれらは東電原発事故記念館の先例となるべき使命も背負っている。
↑〝高砂丸〝を湾口まで出迎える(懐かしい日本の唱歌、童謡のメロディーを流して)(1)
↑婦人会員の出迎え(1)
舞鶴では引揚げといえば、こんな風景↑ のイメージであることが多い、しかしこれらは引揚もかなり後の国家の支援体制が整ってきた兵隊の復員時代のものである。
国家の保護もなかった一般国民の場合は、こんな国家あげての支援も報道体制もはなかった。↓
↑漁船での引き揚げ 朝鮮半島から引き揚げてきた日本人たち。日本兵の復員とは違い、一般の日本人の場合このような粗末な漁船でやっと帰国してくる人びとも多かった。(昭和20年10月 福岡 ジョーダン撮影)(2)
↑故郷への列車に乗る引揚者たち 佐世保の浦頭港に入った引揚者は、南東の針尾島にあった引揚援護局で各種の手続きを済ませ、2~3泊した後、南風先駅から日本各地の故郷へ帰っていった。(昭和21年6月 佐世保 ウィドウスキー撮影)(2)
アメリカ人が写してくれていなかったら写真すらも残らなかった。
↑東京・品川駅で引き揚げ列車を降り、故郷に向かう列車に乗り込もうとしている引き揚げ者の一団。朝鮮北部からの引き揚げだったという(46年6月)(3)
← 旧満州からの引き揚げは混乱をきわめ、多くの引き揚げ孤児たちを生み出した。46年12月5日、品川駅に引き揚げ孤児の第2陣33人が到着。先頭の少女は両親の遺骨を抱いていた。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容された。(3)
この時期は舞鶴でいえば「上安時代」と呼ばれる頃になるが、それは舞鶴市民からはすっかり忘れられている。
『朝日クロニクル 20世紀』は、
660万人、
血涙の帰郷に祖国は冷たく
民間人の引き揚げと軍人の復員は、地域によって大きな差が生じ、とりわけ旧満州を含む中国・朝鮮方面からのそれは凄惨をきわめた。
やっと、たどりついた祖国にも安住の地がなく、国内開拓地や南米移民へと新たな旅に出る人々も多かった。
連合国軍最高司令官マッカーサーは、ミズーリ号で日本が降伏文書に調印した1945年9月2日、日本政府あて一般命令第1号で、外地に居住する日本の軍人軍属、一般日本人を連合国軍の管理下に入れた。
その数は660万人で、中国軍管区(満州を除く中国、台湾、北緯16度以北の仏印)が200万人、ソ連軍管区(満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太、千 島)が272万人と両軍管区で7割強を占めた。アメリカ軍管区とオーストラリア軍管区からの復員・引き揚げは46年夏までにほぼ終了した。しかし中国軍管 区では国共内戦にまきこまれ、ソ連軍管区ではシベリアへの抑留と強制労働など、多くの苦難が待ち受けていた。
日本送還に際しては、引き揚げの優先順位をめぐり、各地で多様な問題が起こった。南朝鮮では、軍隊、警察官、神官、芸者、女郎という優先順位での送還を アメリカ軍が指示していた。日本の朝鮮支配において、朝鮮民族の恨みの対象が誰に向けられていたかがうかがえる。
曠野を流亡する民
旧満州では、関東軍、満鉄、日本大使館、関東局、満州国政府、国策会社の関係者という優先順位の下で引き揚げが実行された。そのため、満州奥地に入植し た開拓団の一般日本人は、敗戦によって情報が途絶したため、流言蜚語の下に曠野を流亡する民となった。その身に大日本帝国への怨恨を負わされての逃避行 は、現地人の襲撃に身をさらすだけでなく、ソ連軍の暴行に日夜さいなまれての行程であった。
ちなみに三江省方正収容所には、敗戦から翌年5月までの9カ月間に8640人が収容されたが、その後、その4分の1強が自決・病死、「満妻」すなわち中 国人の妻となった者も4分の1強となっている。ハルビンにたどりつけたのは1200人にすぎない。その他は、自ら脱出した者1200人、現地に残った者 1120人、ソ連兵に拉致された孝460人と記録されている(『満州開拓史』)。各開拓団の青壮年が敗戦3カ月前の45年5月に、関東軍による「根こそぎ 動員」で現地召集されたため、老人と女子供の群れとして、流亡せねばならなかったことが事態をいっそう悲惨にした。
日本政府は、博多などの引き揚げ港に婦人救護相談所を開設、引き揚げ女性の相談業務を行った。その業務は、性病の日本への伝播の防止と暴行被害女性の妊 娠中絶を目的のひとつとしており、10歳以下の幼女を除く70歳までの女性すべてが対象となった。故国にたどり着いた女性の、いまなお癒されぬ傷となって 残っている。また引き揚げ者のなかには、途中で親と死別し、無縁故者となった子供が多くみられた。これらの引き揚げ者を迎える世間の眼は冷たく、引き揚げ 者は故国日本に安住の地をみいだせないまま、再起の場をその後ブラジルなど外国に求めた人も少なくなかった。
日本人と「非日本人」
政府の緊急開拓事業は、引き揚げ者にとり、新たな生活を切り開く世界と思われた。北海道をはじめとする荒蕪地への入植は、満蒙開拓や南洋進出を夢想した引き揚げ者にとり、新しい大地との出合いであり、戦後開拓の幕開けとなった。
連合国軍総司令部は、こうした外地日本人の引き揚げとは別に、1946(昭和21)年5月に「以前に中国、台湾、朝鮮、琉球諸島の住民であって、日本に移 動させられた者」を「非日本人」と規定し、それぞれの出身地への引き揚げを指令した。このとき、北緯30度以南の鹿児島県と、沖縄県の出身者は「南西諸島 人」「沖縄人」として「日本」からの引き揚げ対象者となった。まさに敗戦は、日本と日本人にとり、帝国日本の原像を問い質す場を提示していたのである。 (大濱徹也)
引揚者は「祖国の同胞に温かく出迎えられた」という美化された物語、舞鶴あたりでもまことしやかに語られる伝説はどうやらデッチ上げられたものでマユツバ もの、はっきり言えばウソらしい。連れて帰れそうにはないと我が子を我が手で絞め殺し、我が子を外地に残したままでも帰国したのであるが、「しまった、 帰ってくるのではなかった」と思ったという引揚者もまた多かったという。
「舞鶴の故国の自然に迎えられて感無量」とかは引揚者の手記によく見られるから本当だろうが、「同胞市民に温かく迎えられて感無量」はまず書き残されては いない。同胞の国家政府や地元行政の対応などがうれしかったなどもない。今でも民間引揚者などは当館ですら「温かく迎えている」とは書きがたい、リックや 子供の小さな靴がわずかに展示されているだけのものであった。当ページが書き立てでもしない限りはほぼ無視であろうか。↑上に引かせていただいた『朝日ク ロニクル 20世紀』の指摘はほぼ正確であったと見てよいし、現在に至るもその様子のようで大きくは変わらないようである。
「舞鶴は引揚で燃え尽きたんです、引揚が終わってからは腑抜けのような町になってしまいました、あれで終わったんです」と舞鶴出身で舞鶴を見つめ続ける某氏に言われたことがある。
「自然の美しさは感無量、住んでる人間はたいしたことなし」と命のかかった苦労の中でみがきあげた感覚で引揚者たちはわずかの間に見抜いていたのかも知れない。しかしそこまでは言えないかも知れないことがわかる。
多くの市民とすればそれでも一生懸命に精根尽くしてやってはきたのだと思われる、そして燃え尽きてしまった、そして終わったあとはみなが腑抜けのようになってしまった。
市民とすればもう一度原点の引揚に戻ること、もう一度引揚に向き合いなおすこと、苛酷な過去に思いをめぐらすこと、そうした精神に立ち返り燃え残したものを燃やし尽くすことが、抜けた臓腑をとりもどし、舞鶴市民のキモを取り戻す出発になろうか。
楽しかったよき時代を思い出しても自分を取り戻すことはできない、単なる思い出で、二度ともどらぬ過去の甘い記憶である、癒やしにはなっても未来を切り開 くエネルギーまでにはなるまい、苛酷な過去を思い出してこそ、自分のキモが取り戻せる、明日への糧になるのかも知れない。それが当館などの使命だが、はた せるだろうか。
引揚は敗戦の直後から、昭和33年の末の援護局閉局まで続いた。ずいぶんと長い期間続いた事業で、66万人余が舞鶴へ帰ってきた。
引揚といえば引揚船が思い浮かぶが、舞鶴は、こうした港ととして戦後を出発した。舞鶴へ入港した引揚船は延べ346隻にものぼるというが、私はこの時代に 生まれて、ずっと小学校卒業して中学校へ行く頃まで、我が家からは直線3キロばかりの対岸で見られた光景であったにもかかわらず、何もこれにまつわる記憶 がない。ずいぶんとええかげんな教育環境に育った、こうしたことは日常茶飯事の地の少年だったと思われる。
ここでは引揚船についてだけで、こうした悲惨な事態を招くに至った我国の恥多き隠したくなる前史などはすべて省略しています。この時期に引揚げて帰国した 人々はたいていが被害側の方々で、加害者のワルどもはたいていが誰よりも先にこうなる前に帰国していたと思われます。
『引揚港舞鶴の記録』には、
興安丸など32隻が就航
引き揚げ初期には、日本船のほか米軍のリバティ船(第二次世界大戦中、アメリカで造った構造の簡単な船)などが就航し、中国の上海、葫蘆島からの引き揚 げに当たっていました。引揚第一船の入港は昭和二十年十月七日で、これは前月の十六日に朝鮮人七八八人を釜山へ送還した雲仙丸が、復健で旧陸軍軍人二、一 〇〇人を乗せて入港したものです。
引き揚げにたずさわった日本船は総数三二隻で、この中には戦前大連航路に就航し、戦時中海軍病院船であった高砂丸(九、三〇〇トン)、関釜連絡船の興安丸(七、五七四トン)などが配船され活躍しました。
各船の搭載人員はおおむね二、〇〇〇人から三、〇〇〇人で、多い日には一日に四隻が入港しました。
♪
異国の丘 引揚記念館ではテーマ・ソングのように流れている。you tube より↓
この歌は記憶にある。たぶんラジオで聞いたものと思うが、何も意味は知らなかった。『引揚港舞鶴の記録』には、
《異国の丘》敗戦後、シベリアに抑留された 将兵が強制労働の合間に、はるか故国を偲びながら朝な夕な口ずさんでいたといわれる歌謡曲〝異国の丘〟は、昭和二十三年八月一日、NHKの「素人のど自 慢」で、復員して来た一人の元兵士が歌ったのがきっかけとなって、その歌詞・メロディともに多くの人々の共感をよび、たちまち全国のすみずみまで広がっ た。
極寒、炎熱の地で虜囚の日々を過す夫や息子を偲びながら、老いも若きも、あるいは身内にそうした人がある、なしにかかわらず、多くの人々によって歌われたのである。また、
……昭和二十五年一月二十一日夜、舞鶴へ帰港した高砂丸が、翌二十二日早朝、上陸を前にして待機中、胸に日の丸の記章をつけ、同じく日の丸の小旗を振って デッキいっぱいに並んでいた引揚者の一隅から、突如、朝もやをついて″異国の丘〟の歌声が流れてきた。それは、たちまちアラシのように船全体を包む大合唱 となった。内地の留守家族達が肉親を偲んで歌っていたこの歌が、引揚船で歌われたのは、引き揚げ開始以来、これが初めてであった……と、当時の朝日新聞 (昭和二五・一・二三付)は報じている。
♪岸壁の母 舞鶴のテーマ・ソングであった。
↓you tube より。『引揚港舞鶴の記録』には、
《岸壁の母》平沖に停泊した引揚船からラン チに乗り換え桟橋へ、人々の重味でしなう木造の桟橋を渡るとすぐ目の前に「歓迎」のアーチ、それを渡ると夢にまで見た祖国の土だ、ふるえる足を踏みしめな がら感激の第一歩をしるす。桟橋に立ち入れない出迎えの家族や関係者達は、アーチの周りに府県名や肉親の名前を大書したノポリを立て、帰って来る人の姿を 求めて、いまか、いまかと待ちわびる。やがて、そこ、かしこから悲鳴にも似た嗚咽と、爆発するような喜びの声の交錯…。(朝日新聞より)。
これが引揚船が着くたびに何時も見られた出迎えの光景である。こうして船の着く日は全国各地からまだ帰らぬ夫やわが子を待ちわびていた留守家族が出迎え に、あるいはその消息を求めて、どっと繰り込んできた。こうした出迎えの人々のなかに、いつのころからか、毎回、同じ顔ぶれの人が桟橋の脇にたたずんでい る姿が見受けられるようになり、これが、いつしか報道陣の目に止まり「岸壁の母」あるいは「岸壁の妻」として取り上げられ、たちまち有名になったのであ る。もっとも、こうした人達は、当時、マスコミに取り上げられた特定の人だけでなく、ほかにも、たくさんの人達がそうであった。
なかでも、レコードで一躍有名になった「岸壁の母」のモデルといわれる東京都の老婦人は、昭和二十五年一月、ナホトカからの引揚船が舞鶴へ入港して以来 六年間その都度、舞鶴へやって来て息子の姿を求め″もしや、もしや〟と桟橋に立ち続けた。当時、東京-京都間は急行列車でも一晩がかり、そして京都-東舞 [...]
↧